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ストーリー8.教え方、学び方の日米英比較、1人の教員ができること

中原 それでは皆さん、こんにちは。トークセッションのほうをきょうは始めていきます。きょうはオックスフォード大学の苅谷先生に来ていただきました。きょうはお忙しいところ、ありがとうございます。

苅谷 イギリスの場合は、特にオックスブリッジっていう所では、チュートリアルっていう個別の指導が、教え方、学び方の根幹を成してるわけで。基本は一対一で、毎週、必ずこれだけのものを読みなさい、アメリカのアサイメントどころじゃないですよ。リーディングの量はね。で、読むだけじゃなくて、必ず読んで、ある問いに答えなきゃいけない。それを、口頭で先生に伝えるんじゃなくて、事前に大体、読んでタイプすれば、10枚ぐらいのエッセー、エッセーっていうんだけど、それにちゃんと議論を書いて、しかも、そこには読んだ物の痕跡がなきゃいけないわけだから、当然、読んだ知識を使いながら、ある答えに到達する、ディスカッションする。それを、事前に先生に渡しておいて、先生は、それを読んだ上で、フェース・トゥ・フェースで、それに対して、いろいろ、こんなこと言ってるけど、どうなんだって、議論するわけですよ。

中原 何時間ぐらい。

苅谷 大体、1時間ぐらい。だけど、その10枚の、日本語でいうとレポート、を書くために、何冊もの本を読まなきゃいけないわけだし、しかも、それを書くための時間も要るわけだから、オックスフォードでは、フルタイムの学生は1日8時間、週5時間勉強するのが当たり前だって言ってるんだけど。しかも、事前に先生が読んだ上でコメントするわけだから、その1時間の時間っていうのは、もう既に、お互いの了解すべき情報とか知識は、もう終わってるわけですよ。お互いがいかにクリエーティブに、あるいは知識に対して、新しい価値をどう付け加えたかということについてのディスカッションをするわけですよ。

中原 ああ、なるほどね。読むことは当たり前で、ミニマムなんだと。

苅谷 そう。その知識を間違って使ってたら、もちろん正すけど、それ以上に、いかにしてその知識を使って、ある議論を組み立てるかってことをやるわけですよ。だから、すごく抽象的な高度なレベルの問題が出されるし、そのことを答えるためには、いかにユニークに、オリジナルに読んだものを学生たちが使いながら、しかも、より美しい文章で書かなきゃいけないのね。イギリスはね。

中原 イギリス式の。

苅谷 僕は、やっぱりね。これはね、もう、大昔になるけど、『アメリカの大学ニッポンの大学』っていう本を書いたときにね、ある章の中でね、日本人のコミュニケーションのスタイルと、アメリカ型のコミュニケーションのスタイルが違うことが、教える場面、あるいは学ぶ場面にも表れていて、そのことがなかなかアメリカ型に移そう、まねしようと思っても、できない一つの壁になってるんじゃないかっていうことを、その頃書いたんですけどね。ダイアローグ型とモノローグ型っていう仕分けをして、ディスカッションが積み上がって、だんだん高次の次元に認識が高まっていくような議論とね、どうしても、誰かが言ったことを受け止めはするんだけど、そのキャッチボールが積み上げ型になっていかないような、どちらかというと、モノローグの連鎖みないな。そのとき、何て書いたかな。連歌みたいなものだ、みたいに書いたかもしれない。ちょっと忘れちゃったけど。そういう、もともとの日本語の、日本人の持ってるコミュニケーションのスタイルみたいなものが、その当時はね。まだモノローグ型だったっていうことを書いたんだけどね。今は、もっとディスカッションが必要だと。そのディスカッション次第で、議論をすることによって認識を高めていったり、まさに批判的な能力が必要だってことは、こんだけ言われてるんだけど、じゃあ、どういうディスカッションをしたら、それを高められるかっていうノウハウ、そこのところに、多分、こういうプロジェクトが一歩でも二歩でも突っ込んでいけたら。これはね、実例を出すしかないんだよね。それによってしか、ある能力が育ってるっていう自信になってこないんだよね。
 なんでそんな授業やったかっていうと、とにかく僕の議論まで来てくださいっていう、そっから先は、僕が教えてあげる。でも、ここまで寄ってきてくれない限りは、学生、聞く耳持たないでしょ。なんだ、つまんないなって思っちゃったら、いくら、象徴的暴力とは何々であるって僕が、いくらうまく説明したって、それは伝わらないわけ。だけど、そのときに身をもって味わったことって、今でも覚えててくれてるわけでしょ。

中原 今でも覚えてますよ。

苅谷 ね。

中原 今でも覚えてますし、その後に、調査実習を先生が取りにいったのが、それが

苅谷 だから、そのとき身をもって覚えたことの中に、例えばプリッツの分け方の中に「均等」っていう概念を僕は教えてるわけですよ。具体的な経験から抽象化してね。

中原 はい。

苅谷 あるいは、なんで君たち、ノート取ってるの。誰も何も言ってないのにねって、彼らの筋肉が動いてることに、力が働いてるっていう。これ、もしかしたらすごい力だよね。これ、実は社会学ではシンボリックバイオレンスっていうんだよねって言ったら、これって、もう参加しちゃってるわけだから。そっから先の議論に入ってくるじゃないですか。そうやって、とば口、入り口まではね、とにかく連れてきてあげるためには、教師は工夫が必要なのね。それは、多分、僕が日本の大学に居たときに、なんでこんなつまらない話をするんだろうなって授業がたくさんあった。もしかしたら、その中身は、その中にいったん入れば、とば口から、入り口から入れば、すごく充実した、面白い内容がいっぱいあったのかもしれないけど、僕が学生の頃って、自分もそんないい学生じゃないし、途中でつまんなくなったら、そっから先に行かないわけですよ。そういうことを自分で、なんでこんな話、してんのかなって。学生の立場から見たら、全然分かんないわけね。教師の立場がね。だけど、自分が学生だったことを踏まえれば、その入り口まで、どうやって連れてきてあげるかっていうことが大事だっていうのが、やっぱり、実感しますよね。だから、その工夫はいろいろ考えてやったね。

中原 うん。

苅谷 僕自身、東大の若手の教師のときに、これは教育学研究科の中だけだけど、いろんな先生たちに協力をしていただいて、それで、ワークショップみたいなので、院生向けに、大学で教えるためのスキルを伝えるためのワークショップを1学期だけやったことがあるんだね。

中原 授業ですか。

苅谷 授業っていうかね、それはもう単位は出ないから、ある曜日と時間を設定して、その中で、例えば大人数の講義をするときに、どういうところに注意をしなきゃいけないかっていうのを、大人数の実際、講義をなさってる先生に苦労話をしてもらって、それを例に使いながら、そこに来てる院生たちとディスカッションするとかね。それから、シラバスの書き方もやったし、成績評価っていうのをどうやってやるかとかね。そうやって、毎回、協力してくださる先生に、実例、ご経験を話していただいて、それを材料にして、そこでディスカッションするみたいなことを。これ、単位とは無関係なんだけども、そういうことをやったんですよね。

中原 めちゃめちゃ先進的ですね。

苅谷 だけど、結局、それ、個人のボランティアでやってるから、もう、だんだん自分がしんどくなっちゃって。いろいろ学内業務の変化とかもあって、継続できなくなっちゃうんだけれども。それから思うと、今はこうやってやってるわけですよ。で、その後、個人ではもう、そういうワークショップみたいなものはなかなかできなくなっちゃうんだけれども、その後、僕がいろんな授業で、だんだん、TAっていう、ティーチングアシスタントっていうのが制度化されてくるんだけど、TAたちに実際に授業手伝ってもらうだけじゃなくて、大学で教えるってことは、こういうことなんだよってことを、いつもお昼ご飯を食べたり、そういうときにね、語ってたね。

中原 ああ。

苅谷 だから、もちろん自分の講義のしかたとか、あるいはゼミのディスカッションのしかたとかを手伝ってもらったりするんだけど、同時にそれは彼らがそこで、彼ら、彼女たちがそこに参加するわけだから、僕のやり方を見せるわけ。で、自分のやり方を見せると同時に、後でどっかの機会に、あれは実はね、自分の考えがこうこう、こういうことがあってねって、楽屋話をして、それで、種明かしをする中で、院生たちの教えることに対する意識と、ノウハウっていうのかな。それを伝えようみたいなことは、東大辞める頃までも、随分、それだけは続けてたね。

中原 まだまだ、お話をお伺いしたいんですけども、最後に、これから近い将来、大学の教員になられる若い世代、恐らくそれは、苅谷先生の世代とはちょっと違ってる、社会環境とか組織環境を生きてる人なんですけれども、そういうかたがたに、先生からどんなメッセージを掛けてあげたいか。あるいは、どんなティップスでもいいんですけれども、未来の大学教員に対して、先生がお伝えしたいことってありますか。

苅谷 あのね、もちろん授業に出て来ない学生も居るかもしれないし、出てきても寝ちゃう学生も、携帯、今だったらスマホっていうのか。ガラケーって言葉、分かんなくて。ガラケーって何だ。まあ、いいや。つまり、いろんなことやって、授業に耳を傾けない、参加点の低い学生も居るかもしれないけど、少なくとも、そこに来てくれてるよね。

中原 うん。

苅谷 目の前にね。

中原 はい。

苅谷 さっきもちょっと言ったけど、自分がその人たちに対して、一方的に、少なくとも、何かを伝える権限は与えられてるわけですよ。

中原 教師というのは。

苅谷 教師というのは。しかも、それを自分で、大学というのは、高校までの教育と違って、教科書検定で教科書を国がガイドラインを決めてるわけでもないし、時間割だって何だって。そういう意味じゃ、国の制度からは比較的緩やかに逃れていて、その中で自分が教えるっていう仕事に立ち向かえるわけですよ。

中原 うん。

苅谷 で、もちろん、基本的な知識を教えなきゃいけない授業もあるし、高度な知識やそういうもの教えなきゃいけないものもあるんだけれども、そういう中で、少なくとも目の前に居る学生に対して、教師の側が能動的に働きかける特権を持ってるわけね。

中原 うん。

苅谷 この特権って、やっぱり素晴らしいものですよ。いかにそれを利用するかによってね。

中原 うん。

苅谷 そういう中で、僕はやっぱり、大学でしかできないことって、最終的には何なのかなって思うと、高校までの授業っていうのはね、抽象化とかね、それから、公式なりフォーミュラがあってね。それを現実に今度は、リダクション、リダクションって話だけど、演繹と帰納って話だけど、そういう頭の働き方って、あんまり意図的には。小学校から高校までの教育ってしないんです。

中原 しないですよね。

苅谷 だけど大学って、結局、ある概念を教えたり、ある概念がある現実と、どう対応してるか。あるいは、いろんな現実の経験則の中から、いかにして、その中から、ある規則性とか、あるパターンを見いだすかみたいなことって、今、言った、帰納と演繹みたいな頭の働かせ方っていうのは、大学でしか教えられないわね。これって、われわれが日常生活をする上で、うまくそういう頭の使い方ができるかどうかで、それこそ、今のいろんな環境問題、それこそ政治の問題、いろいろ含めて、私たちが日常の経験の中で、それをいかにして一般則にしたり、抽象化したり、それによって、ある問題の広がりを認識したり。逆に、ある持ってる抽象的な知識から具体的な経験や問題を理解したりって、いつもそれを行ったり来たり、抽象化と具象化の行ったり来たりをしながら、われわれは価値判断をし、生きてかなきゃいけないわけじゃないですか。それって、教えられるの、大学だけなんだよね。ただ、それをいかに自覚して次の世代の能力形成に、そういう、要するに、知的な能力の形成につなげるか。そのときに、眠ってたって、その人たちにうまく関心を持たせれば、そういうことを伝えられるポジションに居るっていう。

中原 すいません。どうも、きょうはありがとうございました。苅谷先生。すごく、なんとも示唆に富むというか。思い出話を含めてお話を伺いました。どうもありがとうございました。

(了)

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